2010年 01月 17日
そういうことかなあ。。
寒いですね~。夕べはこの冬一番の寒さで、マイナス10度だったらしいです。
どうりで、二重サッシの内側まで凍ってたよん。
で、今日も寒かったですが、いいお天気だったので、洗濯物も乾きました~~♪
さて、前記事や、「さんまいのおふだ」のことを書いたときもそうなんだけど、少しでも「宗教」がらみかな~?ってことを書くときには緊張します。
それは、もちろん「宗教」を知らないからなのですが、この国ほど、教育から宗教をはずしている国ってないのではないかと思います(いや、それすらよくわかんないけどね)
そして、さらに、「地下鉄サリン事件」のようなことがあってから、ますます、敬遠するようになってはしないかと思います。
わたしだって、多くの人と同じく、今目の前で親しく話している相手が、突然と「実はわたし〇〇教なのよ・・」ときりだしたとたんに、気持ちの上では100キロくらい離れそうだし、「へえ~~」って言いながら、顔が引きつっているかもしれません。
だけど、初詣に神社に行ってお参りし、帰りに近くのお寺にも寄っておみくじを引いたり、お盆の行事もすれば、クリスマスだって楽しんだりします。
そういうことはするのですけどね。。^^;;
そんな私ですが、若い頃には、とっても悩んだ時期もあったわけで、今思えばまったくたいしたことではないのだろうけど、たぶん、その頃買ったと思われる本があります。
おそらく、その「タイトル」に惹かれたのでしょう。
買ってから、お坊様の本だと知りました。
当時102歳の清水寺貫主、大西良慶さんのお話を、口述筆記でまとめたものです。
さまざまなお話をされてますが、やさしい語り口の「御法話」であります。
どのお話もするすると、心に入ってくるのですが、何せん、忘れっぽいのがわたしです。
読んでは忘れ、たま~~に思い出して、また読んで「ふ~~~ん。そうか~~」と思い、また忘れるわけなんですが。。
そんな程度にしか読まないのに、なぜかいまだに手元においてありました。
ところで、最近は「カウンセリング」流行りといますか。。。
あちらこちらで「カウンセリング講座」もしくは「カウンセリング」という言葉を聞きますね。
わたしも、そういうところに誘われて、一回くらいは行ったし、「カウンセラーさん」も何人かにお会いしたり、ついには友人になってしまった人もいます。
でも、「講座」でさかんに使われる「傾聴」とか、「受け入れ」とかいう言葉に、なぜか「いまさらそんなこと」という気がするのです。
それはわたしにとっての「いまさら」です。
だって、そんなことはずっと前から知ってるし~~~。。。。ということです。
なんでだろうなあ~~・・・・・と思ってたんですが。。
この「ゆっくりしいや」の中にありました。
「仏様の教え」のなかでは、「傾聴」やら「受け入れ」というものはあたりまえにあったわけです。
忘れっぽい私の中にも、そのことが残っていたんですね。
もちろん、カウンセリングで言うところのそれと、仏教の教えでいうものとは、違ったものなのかもしれませんが。。。。
それはひとまずおいておいて。。
いまの世の中「カリスマ」なるお方が多いですよね。
「子育ての〇〇方式」だとか「経済界の〇〇」だとか、あらゆるジャンルの中に、世でいう「成功」を納めた人が
どんどん本を出して、それが、ものすごく売れたりして、そしてそこに集まる人たちを「信者」と呼んだりしています。
これって、目的がはっきりしていて、けして悪いものではないはずなのに、でもなんだか違和感を感じるのです。違和感というか。。。とても「危ういもの」ともいうかんじかな。。
前記事の河合先生の「それではシンリ教になってしまいます」ということばで気が付きました。
「その話に感動するあまり、それが物語りであることを忘れ、それを「法則」のように考えて「適用」しようとすることである。」
ここですね。つまり、その「個人」の「成功物語」を「法則のように考えて適用する人」というのは
「個人」=教祖様 「適用する人」=信者。だとしたら、今の社会の中には、ものすごくたくさんの「〇〇教」があるわけです。
「怪しい宗教」は敬遠されますが、こういう「〇〇教」は全然問題なく、メディアに流されます。
でも、教祖様にせよ「カリスマ」にせよ、「そのひと」だけで出来上がるわけではないですよね。
その「個人」を信じる「信者」がいてこそ、「教祖」が生まれるのだと思います。
それだけ「法則」を欲しがっている人が多いということかもしれないですね。
「カウンセラー」や「カウンセリング」が流行るなかには、そういうことを求めている人もいるのかもしれません。
世の中が「迷い」や「不安」にあふれてしまうときに「宗教」が生まれたように、今は「カウンセリング」なのかもしれないですね。
でも、「法則」を振りかざす「偽宗教」や「偽カウンセラー」では救われないと思うのです。
人は、自分の気づきの中にしか「答え」はないのじゃないかなあ。。。と思うのです。
「答え」というか、「自分の答え」もしくは「納得」というか。。。
でも、それを見つけるために、人に話すわけです。
気持ちを声に出すこと、言葉にすること。。。そうすることで「気持ちの整理」をし、
他者の意見を聞く・・・・その言葉の中から、自分が感じるものを探す。
探すというより、必要とした言葉は自然に入ってくるものなのかもしれないです。
自分が求めていた言葉に出会えたとき「救われた」と思うのかもしれない。。。
そして、言葉でなくてもいい場合だってあるのです。
「ゆっくりしいや」の中でも、
「人によって「悟り」が違うものね。悟りは自分の知恵で悟るものであって、子供には子供の悟りがあり、おばあさんにはおばあさんの悟りがある」
とおっしゃられています。
仏法の中では「片手の声を聞く」といっています。
相手の声を聞く。相手の声を聞くことは、相手の心になること。
「国際間でもそうなの、向こうに片手の声がある。友達同士でもそうやの。向こうの気持ちでいったら
ウンウンと返事が返ってくる。気にいらなんだら黙っている。合わんものを持っていっても、片手の声は聞けないの」
「片手の声を聞こうと思ったら、もうひとつのてをもっていったらいいの。このように、片手と片手を合わせればいいの。片手が指をそろえているのに、ゲンコツを持っていったり、バラバラの指を持っていってもあかんの。
ちゃんとこう、片手に相応した手をもっていくの。それが合掌なの。」
わたしの友人のカウンセラーに
「人の悩み事相談に、どうしたら飲み込まれないで返すことができる?」と聞いたとき
彼女は「わたしはね。相手の話の中の『希望』の言葉を探すだけなの。そしてそれを返してあげるだけなの」
と答えてくれました。
私は、そのときに『片手の声』のことを思い出しました。
でもそれって、お坊さんの修行や、カウンセラーの勉強をしなくてもできることなのではないかと思うのです。
不安な時代だからこそ、人と人が、繋がる。
そこに、上下関係や、権利や、義務や、欲・・そういう余計なものは一切無い、友人があればいいということだけなのかと思います。
どうりで、二重サッシの内側まで凍ってたよん。
で、今日も寒かったですが、いいお天気だったので、洗濯物も乾きました~~♪
さて、前記事や、「さんまいのおふだ」のことを書いたときもそうなんだけど、少しでも「宗教」がらみかな~?ってことを書くときには緊張します。
それは、もちろん「宗教」を知らないからなのですが、この国ほど、教育から宗教をはずしている国ってないのではないかと思います(いや、それすらよくわかんないけどね)
そして、さらに、「地下鉄サリン事件」のようなことがあってから、ますます、敬遠するようになってはしないかと思います。
わたしだって、多くの人と同じく、今目の前で親しく話している相手が、突然と「実はわたし〇〇教なのよ・・」ときりだしたとたんに、気持ちの上では100キロくらい離れそうだし、「へえ~~」って言いながら、顔が引きつっているかもしれません。
だけど、初詣に神社に行ってお参りし、帰りに近くのお寺にも寄っておみくじを引いたり、お盆の行事もすれば、クリスマスだって楽しんだりします。
そういうことはするのですけどね。。^^;;
そんな私ですが、若い頃には、とっても悩んだ時期もあったわけで、今思えばまったくたいしたことではないのだろうけど、たぶん、その頃買ったと思われる本があります。
おそらく、その「タイトル」に惹かれたのでしょう。
買ってから、お坊様の本だと知りました。
当時102歳の清水寺貫主、大西良慶さんのお話を、口述筆記でまとめたものです。
さまざまなお話をされてますが、やさしい語り口の「御法話」であります。
どのお話もするすると、心に入ってくるのですが、何せん、忘れっぽいのがわたしです。
読んでは忘れ、たま~~に思い出して、また読んで「ふ~~~ん。そうか~~」と思い、また忘れるわけなんですが。。
そんな程度にしか読まないのに、なぜかいまだに手元においてありました。
ところで、最近は「カウンセリング」流行りといますか。。。
あちらこちらで「カウンセリング講座」もしくは「カウンセリング」という言葉を聞きますね。
わたしも、そういうところに誘われて、一回くらいは行ったし、「カウンセラーさん」も何人かにお会いしたり、ついには友人になってしまった人もいます。
でも、「講座」でさかんに使われる「傾聴」とか、「受け入れ」とかいう言葉に、なぜか「いまさらそんなこと」という気がするのです。
それはわたしにとっての「いまさら」です。
だって、そんなことはずっと前から知ってるし~~~。。。。ということです。
なんでだろうなあ~~・・・・・と思ってたんですが。。
この「ゆっくりしいや」の中にありました。
「仏様の教え」のなかでは、「傾聴」やら「受け入れ」というものはあたりまえにあったわけです。
忘れっぽい私の中にも、そのことが残っていたんですね。
もちろん、カウンセリングで言うところのそれと、仏教の教えでいうものとは、違ったものなのかもしれませんが。。。。
それはひとまずおいておいて。。
いまの世の中「カリスマ」なるお方が多いですよね。
「子育ての〇〇方式」だとか「経済界の〇〇」だとか、あらゆるジャンルの中に、世でいう「成功」を納めた人が
どんどん本を出して、それが、ものすごく売れたりして、そしてそこに集まる人たちを「信者」と呼んだりしています。
これって、目的がはっきりしていて、けして悪いものではないはずなのに、でもなんだか違和感を感じるのです。違和感というか。。。とても「危ういもの」ともいうかんじかな。。
前記事の河合先生の「それではシンリ教になってしまいます」ということばで気が付きました。
「その話に感動するあまり、それが物語りであることを忘れ、それを「法則」のように考えて「適用」しようとすることである。」
ここですね。つまり、その「個人」の「成功物語」を「法則のように考えて適用する人」というのは
「個人」=教祖様 「適用する人」=信者。だとしたら、今の社会の中には、ものすごくたくさんの「〇〇教」があるわけです。
「怪しい宗教」は敬遠されますが、こういう「〇〇教」は全然問題なく、メディアに流されます。
でも、教祖様にせよ「カリスマ」にせよ、「そのひと」だけで出来上がるわけではないですよね。
その「個人」を信じる「信者」がいてこそ、「教祖」が生まれるのだと思います。
それだけ「法則」を欲しがっている人が多いということかもしれないですね。
「カウンセラー」や「カウンセリング」が流行るなかには、そういうことを求めている人もいるのかもしれません。
世の中が「迷い」や「不安」にあふれてしまうときに「宗教」が生まれたように、今は「カウンセリング」なのかもしれないですね。
でも、「法則」を振りかざす「偽宗教」や「偽カウンセラー」では救われないと思うのです。
人は、自分の気づきの中にしか「答え」はないのじゃないかなあ。。。と思うのです。
「答え」というか、「自分の答え」もしくは「納得」というか。。。
でも、それを見つけるために、人に話すわけです。
気持ちを声に出すこと、言葉にすること。。。そうすることで「気持ちの整理」をし、
他者の意見を聞く・・・・その言葉の中から、自分が感じるものを探す。
探すというより、必要とした言葉は自然に入ってくるものなのかもしれないです。
自分が求めていた言葉に出会えたとき「救われた」と思うのかもしれない。。。
そして、言葉でなくてもいい場合だってあるのです。
「ゆっくりしいや」の中でも、
「人によって「悟り」が違うものね。悟りは自分の知恵で悟るものであって、子供には子供の悟りがあり、おばあさんにはおばあさんの悟りがある」
とおっしゃられています。
仏法の中では「片手の声を聞く」といっています。
相手の声を聞く。相手の声を聞くことは、相手の心になること。
「国際間でもそうなの、向こうに片手の声がある。友達同士でもそうやの。向こうの気持ちでいったら
ウンウンと返事が返ってくる。気にいらなんだら黙っている。合わんものを持っていっても、片手の声は聞けないの」
「片手の声を聞こうと思ったら、もうひとつのてをもっていったらいいの。このように、片手と片手を合わせればいいの。片手が指をそろえているのに、ゲンコツを持っていったり、バラバラの指を持っていってもあかんの。
ちゃんとこう、片手に相応した手をもっていくの。それが合掌なの。」
わたしの友人のカウンセラーに
「人の悩み事相談に、どうしたら飲み込まれないで返すことができる?」と聞いたとき
彼女は「わたしはね。相手の話の中の『希望』の言葉を探すだけなの。そしてそれを返してあげるだけなの」
と答えてくれました。
私は、そのときに『片手の声』のことを思い出しました。
でもそれって、お坊さんの修行や、カウンセラーの勉強をしなくてもできることなのではないかと思うのです。
不安な時代だからこそ、人と人が、繋がる。
そこに、上下関係や、権利や、義務や、欲・・そういう余計なものは一切無い、友人があればいいということだけなのかと思います。
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のんのん
at 2010-01-18 10:37
x
そうそう、まさにそう。
またまた、くまたろうさんに代弁してもらっちゃった。
わたしも子どもの幼稚園が開いた講演会で、
人数集めで○業の話を聞いたことがあるのよ。
確かに言ってることはまっとうで、なるほどと思いブログにも書いたりしたけど、
でもなんか違う、なんか危ない、って思ったよ。
商売っ気もかなりあったしね。
それにその後はまっていく人たちが結構いて、
何も言うことはできなかったけど「違うぞ~」ってずっと思ってます。
不登校のコのお母さんではまっている人がいるけど、
そのお嬢さんはとってもしんどそうなの。
なんかそれが何かを物語ってる気がします。
またまた、くまたろうさんに代弁してもらっちゃった。
わたしも子どもの幼稚園が開いた講演会で、
人数集めで○業の話を聞いたことがあるのよ。
確かに言ってることはまっとうで、なるほどと思いブログにも書いたりしたけど、
でもなんか違う、なんか危ない、って思ったよ。
商売っ気もかなりあったしね。
それにその後はまっていく人たちが結構いて、
何も言うことはできなかったけど「違うぞ~」ってずっと思ってます。
不登校のコのお母さんではまっている人がいるけど、
そのお嬢さんはとってもしんどそうなの。
なんかそれが何かを物語ってる気がします。
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vinge at 2010-01-18 16:08
☆ のんのんさん
うん、うん、危なっかしい。。。別に金品の強要がなくてもね^^;;
どんな素晴らしい人生を送った人の話でも、どんな成功でも、その人の人生をなぞることはできないのにね。。
わたしの人生は、わたしのものでしかないし、さらに、わが子だって、我が子の人生なんだものね。
苦しいときに、人のアドバイスや、知恵を借りたり。。。それは必要だと思うけど、ずっと借り続けようとするのは変だと思うのよ。
でも、なんか自分で考えない人も多いなあ。。。。って気がしちゃう。。
うん、うん、危なっかしい。。。別に金品の強要がなくてもね^^;;
どんな素晴らしい人生を送った人の話でも、どんな成功でも、その人の人生をなぞることはできないのにね。。
わたしの人生は、わたしのものでしかないし、さらに、わが子だって、我が子の人生なんだものね。
苦しいときに、人のアドバイスや、知恵を借りたり。。。それは必要だと思うけど、ずっと借り続けようとするのは変だと思うのよ。
でも、なんか自分で考えない人も多いなあ。。。。って気がしちゃう。。
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ホーゲル
at 2010-01-19 15:17
x
くまたろうさん、お邪魔します。
人は、自分の気づきの中にしか「答え」はないのじゃないかなあ。。。と思うのです。
本当にそう思います。
カウンセリングの危うさも、宗教に対する考えも、アグリーです。
基本、自分で言うのも変ですがとても素直なわたくし。
でも、どうもみんな同じ答えや考えには居心地の悪さを感じてしまう。
正解や考えは、人の数だけあるよね。
(ゆっくりしいやー)
リクエストしてみよう。
あ、お誕生日おめでとうございます。
人は、自分の気づきの中にしか「答え」はないのじゃないかなあ。。。と思うのです。
本当にそう思います。
カウンセリングの危うさも、宗教に対する考えも、アグリーです。
基本、自分で言うのも変ですがとても素直なわたくし。
でも、どうもみんな同じ答えや考えには居心地の悪さを感じてしまう。
正解や考えは、人の数だけあるよね。
(ゆっくりしいやー)
リクエストしてみよう。
あ、お誕生日おめでとうございます。
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vinge at 2010-01-20 11:31
☆ホーゲルさん
いらっしゃいませ!そしてありがとうございます!!
同じ答えや考えに居心地の悪さを感じるのはわたしもおなじです。
そして、多くの集団は、その気持ち悪さを言わせない空気があるようで、集団が嫌いです。^^;;・・・・ああ、一匹狼・・・・
ゆっくりしいや・・・は、おじいさんの緩やかな「京都弁」?で、一緒におこたつに入ってお話聞いているようなかんじです。
もう、20年以上前の本だけどね。。。
いらっしゃいませ!そしてありがとうございます!!
同じ答えや考えに居心地の悪さを感じるのはわたしもおなじです。
そして、多くの集団は、その気持ち悪さを言わせない空気があるようで、集団が嫌いです。^^;;・・・・ああ、一匹狼・・・・
ゆっくりしいや・・・は、おじいさんの緩やかな「京都弁」?で、一緒におこたつに入ってお話聞いているようなかんじです。
もう、20年以上前の本だけどね。。。
by vinge
| 2010-01-17 17:29
| ほんのはなし
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Comments(4)